復讐したいと思ったら読んで!傷つけられた時のブッダの思考
2017/04/11
人は他人から裏切られ傷つけられたりすと、元気や自信を失い時には絶望したりもします。そしてその相手を恨み、仕返ししたい復習したいという衝動にかられます。
しかし、「人を呪わば穴二つ」、たとえ相手に復讐することができても、それ以上の精神的苦痛を苦痛を追うこととなります。たとえ復讐にどんなに正当な理由があろうとも、恨みによる復習は必ず泥沼の連鎖がはじまります。それは戦争や犯罪が良い例で人類の歴史で証明されています。
私たちの人生でも同じです。恨みによる仕返しをしても決して楽しいことはありません。不幸になるばかりです。こんな時ブッダならどう思考するのでしょう。今回はそんなお話です。
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人から傷つけられた時のブッダの思考法
人から気づけられたと時のブッダの思考法として、『法華経』の第三章にこう書かれています。
害を与えるものを恨み
自分に勝つものを羨ましとし
我から奪えるものを恨むなら
恨みのやむことなからん」
ーー 法華経(第三章) --
ブッダは自分を罵ってくる人や、害を与えようとするもの、自分に勝とうとするもの、あるいは自分から何かを奪おうとするものに敵意をむき出しにして、憎しみを持つならば、ずっとその憎しみから逃れられないだろう。
また、その逆にそういう思いのない人は、憎しみは消え、永遠に続くことはないだろうと言っています。さらには逆恨みや嫉妬で、悪い行いもせず敵意も憎しみも持たない人に対して、怒りや恨みを持つならばそのものは永遠の苦しみを受けるだろうとも言っています。
つまり、たとえ正当な理由があって恨んだとしても、憎しみや苦しみから逃れられないし、ましてや善良な人を恨めば無限の苦しみを受けるだろうという戒めです。そして唯一、苦しみから逃れる方法は「憎しみ」というネガティブな感情から離れることであるということなのです。
どうやって憎しみから離れるのか
『法華経』の第五章に次ような記述があります。
「 恨みに報いるに恨みをもってすれば
恨みの尽くることなし
恨みに対し忍を持ってする
これを如来の法と名づく 」
ーー 法華経(第五章) --
恨みに恨みをもって対抗すれば恨みは永遠に終わらない。これは現在の世界情勢が反映していますよね。武力に武力で対抗すれば世界から戦争はなくなりません。
世界で頻発している内戦やテロとの果てしない戦いは、どんな正当な理由があっても憎しみの連鎖は止まりません。 主張すべきことがあるならば、ガンジーのように非暴力主義で望むべきでしょう。(ブッダ的には)
そして、憎しみの報復が無限の苦しみ生むのだから、とりあえず恨むことをやめよう、我慢しようと言っているのです。そしてこの恨みに対して忍耐することこそが仏の法だと説いているのです。しかし、いくらブッダの教えとはいえ、恨みをガマンするってかなり難しいですよね。どうにかならないのでしょうか。
もっと簡単に憎しみから離れる方法
憎しみから離れるのに忍耐で対応するのは至難の技です。 根性や意志力ではとうていで憎しみという強烈な感情には太刀打ちできないと思うからです。ここからは私の考えですが、憎しみを耐えるのではなく、憎しみを発生させない仕組みを作ればいいと思うのです。
そもそも感情は、対象に対する認知です。たとえばジェットコースターに乗るということが発生した時にある人は恐怖を感じ、別の人はワクワクします。
これは、対象が同じであっても個人によってその認識が異なるからです。別の例を出すとヘビを目の前にして悲鳴を上げる女の子もいれば、少数ですがヘビを首に巻いても平気でいる女の子もいます。
結局、認識の差です。どう思うかなのです。例えば誰かが自分を罵ってきたとします。普通の反応は、
と怒り心頭になるでしょう。
しかし、ここで別の見方をしたとします。
「 きっと大きなトラウマでも抱えているんだろう かわいそうに 」
どうでしょう。こんなふうに認知したら、哀れみこそでるものの怒りは発生しないし復讐心もおきません。そうなんです。これは我慢ではなく、認知を変えただけです。
つまり、私風に言うと、
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最後にひと言
世の中生きていれば馬鹿にされたり、罵られたり、いわれのない非難を浴びたり、傷つけられたリ、そんなことばかりです。これにいちいち報復していたら心がボロボロになるばかりか、ストレスで健康もやられてしまいます。しかも、ナンセンスですよね。
だからこそ認知を変えましょう。もっと大らかな気持になりましょう。雲一つない大空の上空から下界の人間を見下ろしているタカのように悠然として、物事を見ていきましょう。
参考書籍
心がスーッとするブッダの思考術
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